目次
第43戦目
田村潔司vs垣原賢人
Uインター プロレス格闘技
1995年2月18日東京ベイNKホール
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大会名
魁SAKIGAKE
日時
1995年2月18日
当時の年齢
25歳
対戦相手
垣原賢人
会場
東京ベイNKホール
試合時間
2分6秒
勝敗
○田村⇒スリーパーホールド
田村コメント
★田村VS垣原 全シングル戦
①第6戦目新生UWF1990年12月1日長野松本運動公園総合体育館
②第7戦目Uインター1991年5月10日後楽園ホール
③第34戦目Uインター1994年2月25日日本武道館
④第43戦目Uインター1995年2月18日東京ベイNKホール(今回)
今回
④第43戦目 Uインター 1995年 2月18日 東京ベイNKホール
僕と垣原の二人だけの世界に入り込みます。
その影には、新生UWF時代の同僚
船木誠勝(優治)さん
鈴木みのるさん
の存在があります。
少し話は
新生UWF時代に遡ります
船木さん経歴
新日本プロレス⇒新生UWF⇒SWS→藤原組→パンクラス→引退→フリー
→レッスル1→フリー
鈴木さん・冨宅経歴
新日本プロレス⇒新生UWF⇒SWS→藤原組→パンクラス(新日本プロレス→全日本プロレス→他)
垣原経歴
新生UWF→Uインター→全日本プロレス→NOAH→新日本プロレス(引退)
田村経歴
新生UWF→Uインター→リングス→U-FILECAMP
(2016年現在)
この5人は新生UWFで1年と10ヶ月程在籍し同じ釜の飯を食ってた時期がありました。
1988年7月 田村新生UWF入門
1989年4月 船木・鈴木 新日本プロレス⇒新生UWF移籍
1989年6月 垣原賢人新生UWF入門
1989年7月 冨宅新生UWF入門
船木・鈴木・冨宅・垣原・そして田村(僕)
5人は
良く遊び
良く食べ
良く練習し
1年と10ヶ月という短い期間でしたが
公私共に、行動することが多く
練習も一番よくやった仲間でした。
新生UWFが解散となり
5人の所属する団体が
UインターとSWS藤原組(メガネスーパー)
に別れます
●Uインター
⇒田村・垣原
●SWS藤原組(メガネスーパー)
⇒船木・鈴木・冨宅
なぜ別れなければいけなかったのか?
運命のいたずら
とも思えるし
運命だったとも
思えます。
もしも
新生UWFが解散しなければ
あの場所に行ってなかったら
あの時この時
結果として
袂を分かつ形になりました。
5人は、それぞれ
自分の道(運命)を、
自分で決めた。
別れが決まった時
高校球児のように
泣きながら抱き合い別れを惜しみました。
こんな別れ方もあるんだな〜
まあ青春です。。。
Uインター
と
SWS藤原組(メガネスーパー)
所属団体は違うが
焼き肉を食べに行ったり交流は続いていました。
船木鈴木冨宅はその後
SWS藤原組(メガネスーパー)を離脱し
⇩
パンクラス設立1993年9月21日旗揚げ
パンクラス旗揚げ戦は
僕&垣原で一緒に観戦
観戦した感想は?
複雑な気持ちもありましたが
「衝撃」の一言でした。。
パンクラス・・・
僕と垣原は
もっとも意識する団体になりました。
そんな流れの中
今回の試合
第42戦 僕と垣原が対戦します。
僕達が出した答え
「Uインターの未来形の試合」
現在2016年から自身(田村)当時を振り返って感想
「Uインターの未来形の試合」
ん〜
聞こえはいいのだが
正直葛藤はあったかと記憶してます。
当時、まだまだ考えの甘い僕らでした。
25歳の田村
22歳の垣原
若気の至りもありますが
理解出来る部分もあります
プロとは何か?
大会を継続して行く意味とは?
自己満足で良いのか?
Uインターに所属しながら
僕らのわがままを通す
考えは、甘すぎでした。
ただ強い弱いを決めただけの試合になってしまい
高田さん(高田延彦)
を初め
宮戸さん(宮戸成夫)
安生さん(安生洋二)
首脳陣の方々には
僕らの気持ちも理解出来るという事で
暗黙の形で見守っていて頂き
大変申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちです
反省してる前提ですが
25歳田村の行動は、
反省はしつつも
後悔はしていません。
長々読んで頂き
有難うございました。。
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